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中学生との共演 ―使用人といかに接するか

コラム「リーラ ~「インド劇場」に迷い込む~」vol.2

 中学生との共演 ―使用人といかに接するか
 オンラインショップ「インド雑貨.com」運営
 三隅 愛
 2015年12月29日   

 
 日本においては「インド人もびっくり」などという奇妙な形容を与えられ、得体の知れないイメージばかりが先行するインド人だが、そんな彼らをいかに身近な存在として認識するか―

 実際に生活を始めると、会社の部下やご近所さん、役人や店員などあらゆる場面で現地の人々と接することになり、インド人の傾向と対策が分からないうちは大いに戸惑うことになる。中でも最初にして最大の難関、それは「使用人」と呼ばれる人たちかもしれない。

 

 インド中流層以上の一般的家庭では、掃除や料理、子守などいわゆる家政婦の役割を果たすサーバント、そしてお抱えが主流のドライバーの「二大使用人」を雇っているのが一般的だ。そのほかにも居住地や会社専属の守衛(チョキダール)、お茶汲み雑用係(ピューン)などといった、日常の雑事を請け負う細分化された職業が数多く存在する。そして職とはすなわち、特に下層階級ではカーストを背景としている場合がほとんどだ。インドにおいて卑しいとされる種類の労働を下層階級が請け負い、雇い主である上層階級は働き口を提供するとともに、時には使用人の子どもの学費や家族の治療費なども負担し、布施という意味合いを含んだ生活全般におけるサポートを担う。古来からの思想や宗教観に基づく相互補助システムとして現代社会でも機能している。

 カーストはさておき、江戸時代の丁稚奉公などかつての日本にも似たようなシステムが存在したが、現代では日常の個人的雑事を人に任せるということはほとんどない。このため日本人は人を使うことに不慣れで、使用人を雇うことに便利さよりむしろ煩わしさを感じる、などとよく言われる。しかし実のところ、使用人雇用に対する躊躇や混乱の最も大きな理由のひとつは、このインド的思想や宗教観を背景に存在する「下層階級」という人たちの実態が、我々日本人には全くもって想像がつかないというところにある。ある程度の意思疎通ができる隣の奥さまでさえエイリアン的存在だというのに、使用人ともなると輪をかけて得体が知れず、初めて関わるインド人としてはいきなりハードルが高い。

 

 カーストは職業分化の側面を持ち、その種類は3,000にものぼると言われている。このため使用人と言っても個人によりカーストや宗教はさまざまだが、彼らには一つの共通点がある。教育水準が圧倒的に低いということだ。それは日本ではまず遭遇することのないレベルなので、実際に彼らと接するまではどのようなことが起こるのか想像もつかない。識字率が代表的な基準としてよく言われるが、確かに彼らの中には読み書きができない者も珍しくない。しかしそれ以外にもさまざまな反応を体験することになる。

 引っ越した先の守衛に「どこから来た」と聞かれ「ジャパン」と答えると、「そうか、ジャパニーズは最近この辺りでよく見かけるな」と返され、続いて「で、ジャパンはここからバスで何時間なんだ」と問われる。彼にとってあらゆる地名はインドの一地方であり、外国という概念が存在しない。風貌の異なるよそ者は自分と同じくバスや電車に乗って田舎から出てきたと思っている。

 言いつけた用事に対し使用人が何度も間違いを犯すことがあるが、指示を与える段では決まって「イエス」と即答する。意味が分からないとか、意味を確認するための質問というものを聞くことは極めて稀だ。何度も同じ間違いが繰り返され、何度も同じやりとりが繰り返される。「届けるのは移転先の事務所って何度も言ったよね」「イエス、マダム」「本当に分かってる?」「イエス、マダム」「じゃ、これをどこへ持っていくの?」「イエス、マダム」「あの、どこかって聞いてるんだけど、どこ?」「イエス、マダム」。これがコントでなくて何だろう。ちなみに問題は言語の違い以前にあり、英語であろうがヒンディ語であろうが、最終的には日本語で文句を言っても「イエス、マダム」と返ってくる。おそらく彼らの台本には「イエス、マダム」としか書いていないのだ。

 

 教育水準が低いというのは、言動決定の根拠が子供じみているということだ。結論に至るまでの思考が単純で、自分の欲や利益を満たすことがその根拠の大半を占める。しかし当然ながら外見は立派なおじさんおばさんなので、慣れないうちは見た目と言動のあまりのギャップに、外国人の私が見落としている何かしらの正当な訴えがあるのでは、などといらぬ想像をして、その意図を汲み取ろうとさまざまな働きかけをしたりしていた。

 しかし徐々に、どうやら意図はなさそうだと思い至った。そこにあるのは大人の意図ではなく子どもの単純な欲望表現であり、満足な教育を受けられなかった生い立ちが、彼らの中身を子どもの思考言動のままで止めてしまっている。インドが抱える大きな問題のひとつを目の当たりにし、それを掘り下げるのももちろん有意義なことだが、さしあたり私にできるのは彼らにとって安心安定した働き口になることだ。それにはいっそ中身のほうを採用し、彼らを「子ども」とみなすことを試みた。とは言っても幼児のような無垢さはとうに消え失せ、なおかつ下手に子供扱いするとナメられたり暴走されてしまう恐れがあるで、ちょうど扱いの難しい中学生あたりだろうか。そうなると雇い主であるこちらは生徒指導教諭といったところか。自己の内外に存在する理不尽さと常に葛藤し、深い心の闇を抱える思春期の子どもにはどのように接したらいいだろうか?

 

 自身の中学時代を思い起こせば、生徒の信頼を得るべくむやみに威厳を誇張する先生や逆にやたら愛想をふりまく先生がいたが、両者ともそれで本当の信頼関係を築けていたとは言い難い。表面的な接し方の問題ではないのだ。シチュエーションの大きな違いはあるが、しかし私自身もインド生活を始めたばかりのころは使用人との良好な信頼関係を築くべく、試行錯誤の中この表面的な接し方にとらわれてある大きな間違いを犯していた。サーバントやドライバーに対し、きっちり手を合わせて笑顔で「ナマステ」とあいさつしていたのだ。

 「ナマステ」という言葉にはもともと「あなたに帰依します」という意味合いがある。しかし今ではあいさつの語として使われるのでその意を含有することはないが、合掌のほうは、日本では差し詰め最敬礼に値する。つまり、朝家にやってきた家政婦に「おはようございます」と言って最敬礼していたことになる。夕方帰宅する運転手に「お疲れ様でした」と90度のおじぎをしていたことになる。決して間違っているわけではない。しかし立場を考えたら明らかにおかしな行為だ。加えて相手(の中身)は中学生。立場が上であるはずの人間に最敬礼を持って送迎されれば、勘違いするのも当然というものだろう。

 日本でも立場の違いにより相手との接し方を変えるのは、成熟した大人社会でのマナーだ。だがこれと同じトーンでインドの友人家庭などを見わたすと、時に使用人に対する当りの厳しさにたじろくことがある。しかしそこには、カーストというインド独自の社会的立場を背景とするマナーという側面があるのだ。外国人がそのあたりを理解して順応するのはもちろん簡単なことではない。しかし我々は部外者だろうという一方的な判断やカースト対する違和感があるからといって、使用人に対してフレンドリーさを演出して立ち位置をイーブンにしようとしたり、やたら愛想よく機嫌を取ったりすることは、インドではマナー違反に相当する。単にマナーを知らない人として終わるだけならいいのだが、時に勘違いした彼らが制御不能に陥ることでのっぴきならない大問題に発展し、結果お互いが不幸になる事態にもなり得てしまう。

 

 舞台環境の全く異なるアウェイの劇場で、中学生のような内面を抱えた彼らといきなり掛け合いを要求される。そう考えるとインドで使用人を使うということは、やはり相当に難しいことだ。だからこそ、現地の人たちに習うのが最善かつ手っ取り早い方法に違いない。

 そこで私はとにもかくにも使用人に愛想をふりまくのをやめた。最初は現地の人たちの見様見真似だったが、インド人の友人を観察することは大いに役に立った。まるで中学生と生徒指導教諭のようだというのもその時に感じた印象だ。ぐずぐずと不満を口にしたり怠けたりする使用人に、友人たちは当たりこそ厳しいものの忍耐を持って接していた。そこには煩わしさだけではない、自分の役割に対する使命感のようなものが確かにあった。

 そうして接し方を変えたことで、愛想は無用だというところの本質が徐々に見えてきた。彼らを客観的に見ることで状況が少しずつ把握できるようになり、それが相手に関心を持つということにつながっていったのだ。「家族の具合が悪いが薬を買うお金がない」「毛布がないので寒くて眠れない」などといった挨拶代わりの泣き言にも、当初は同情の表情を浮かべつつ「ここで応じていいものか」という思考がまず走ったが、口ではいろいろ言うが実際はどういう状況なのか、困り具合はどれほどなのか、応じる応じないの全体的なバランスはどうか、などを総合的に考えて、そのうえで援助するか聞き流すかの判断をできるようになった。するとはじめは金品ばかりを要求していた彼らも、こちらの変化を受けてだんだんと仕事に対する姿勢や態度が変わってきた。彼らも本当には施されるということ以上に、関心を寄せてもらっているということに恩義を感じるのだ。そこまで来て初めて、雇う側と雇われる側の信頼関係という域に達するのかもしれない。そうして時間をかけて信頼にまで関係を進めた使用人も少数ながら得ることができた。

 

 がしかし、苦労して築いたその信頼関係を打ち砕かれるような事件が起こるのも、インド劇場にあっては実によくある展開だ。初めはいちいちヘコんだものだが、大小さまざまな事件に何度も遭遇するうちに、そうだった、そんなに甘くはないよね!と多少うまく立ち回れていたことに調子づいていた自分に気付かされたと思って、また仕切り直し。あれこれと原因を考えたところであまり意味はない。

 思春期の心の闇が不可解な衝動を引き起こすのと同様に、彼らの悪事もカーストの闇が成せる業かもしれない。だとしたら、我々にそう簡単に理解できるはずもないのだから。

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著者プロフィール

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三隅愛
オンラインショップ「インド雑貨.com」運営
www.indozakka.com 

 

アジア放浪中の2002年、初めてインドの地を踏み、半年かけて1周旅をする。
2008年、当時1歳の子どもを伴い家族で渡印、デリー郊外・グルガオンで暮らす。
「郷に入りては郷に踏み込め」を信条に、衣・食・住環境から生活パターンまでミドルクラスのインド人コミュニティにどっぷり漬かる一方で、日本向け個人事業を開拓。
2014年日本へ帰国。現在はオンラインショップ「インド雑貨.com」を運営、定期的にインドへ足を運ぶ。

 

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