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火曜はセルフサービスで ― 超細分化アイデンティティとしての宗教

コラム「リーラ ~「インド劇場」に迷い込む~」vol.3

 火曜はセルフサービスで
 ―超細分化アイデンティティとしての宗教

 オンラインショップ「インド雑貨.com」運営
 三隅 愛
 2016年2月10日   


 インドに住み始め間もない、2008年雨季のある日の出来事だ。

 連日の雨でぬかるんだ道を泥だらけになりつつ、近所の小さな雑貨屋へ行った。よくインドの旅行ガイド本にも写真が載っているような、砂塵舞う薄暗い店内に洗剤やタバコやビスケットやスパイスやよく分からない固形物なんかの並ぶ、どこにでもある小さな商店だ。

 その日は石鹸と卵を買った。店に入るなり、普段はカウンター奥の椅子に固定されているおばあちゃん店主が、さっと腰を浮かせてやる気満々で迎えてくれた。この界隈では珍しい外国人とあって私たち一家はどこへ行ってもすでに認知されており、さらに小さな子どもを抱えているとあってはみな我先にと世話を焼いてくれる。

 おばあちゃんは石鹸が欲しいと聞くなり、いつものように棚からあれこれと種類を取り出しては一方的に説明し、こちらが品物を手にとることなくビニール袋にさっさか入れていく。ところがこの日、卵を6個、と言ったところで、おばあちゃんの動きがはたと止まった。そしておもむろに石鹸の入ったビニール袋の口を広げて私の方に差し出してきた。10個四方の紙製の仕切りに並んで積まれた卵はカウンターの上、おばあちゃんのすぐ脇にある。今まで一度も私に商品を触らせたことがないのに、突如「自分で入れろ」と言っているのだ。

 多少の困惑とともに自ら卵を手にとって袋に入れると、おばあちゃんは豪快な笑顔でなにかをまくし立てた。店内の壁面を指さしながら、明らかに卵の件についてなにやら説明しているのだが、ヒンディ語ではなにを言っているのかさっぱり分からなかった。

 インドをインドたらしめているもののひとつ、それはなんといっても濃密な宗教の世界、とりわけヒンドゥ教の存在だろう。青い肌に大蛇を巻きつけた神様、空飛ぶ猿の神様、生首片手に鬼を踏みつける女神など、理解に苦しむ奇天烈な神々が、高級ホテルのロビーに、オートリキシャのフロントガラスに、貧しい街並みの街路樹の根元に、あらゆるところで存在感を放っている。

 元来寺好きの私は旅先の寺院にふらりと立ち寄るのが好きで、インド旅行中も教会からモスクまで異教徒が受け入られるところは見境なく訪れたが、特にヒンドゥ寺院へ行くのが楽しみのひとつだった。時に荘厳で、時におどろおどろしい、あるいはユーモラスな神様たちには興味が尽きず、散策の途中に目にしたお寺にせっせとお参りしていた。インドに住むようになってからは、気が向けば近所のお気に入りの寺院へ出かけ、喧騒を離れた静寂の中で土地の守り神に花を供えたり、お経も神楽も線香の煙も盛大なけたたましいプージャ(礼拝)を眺めたりして、日常からほんのすこし離れた時間を楽しんだ。

 そんなわけで詳しいことはよく分からないものの、あらゆるところで目にするヒンドゥの神像や肖像画はすっかり親しみの湧くものとなっていた。インドでは一般家庭のみならず商店や飲食店の店頭にも必ず神棚があるのだが、そこに祀られている神像も実にさまざまで、ははあ、ここはガネーシャ、あっちはシヴァリンガ、といちいち中身を確認しては悦に入っていた。

 しかし当然ながら全く得体の知れない神像やシンボルも数多く存在した。国内全土にわたる土着神まで含めると、インドの神様はそれこそ星の数にものぼるだろう。そしてその中のうちどの神様がご贔屓か、あるいはどの宗派に属するかが、人によって異なっている。カーストが最も大きく関わっているが、広いインドにあっては地域性も同じくらい強い。私が住んでいたデリー界隈では、ヒンドゥ教のメインの神様であるシヴァ、ヴィシュヌのほかには、神話「ラーマヤーナ」に出てくる猿神ハヌマーン、またシヴァ神の生まれ変わりとされる「シルディサイババ」を特によく見かける(日本で一時有名になったアフロヘアのサイババはシルディサイババの後の生まれ変わりとされるが、北インドで彼を目にするのは稀である)。

 

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シルディサイババ。20世紀初頭までシルディに実在した人物。
よく見るこのおじいちゃんは一体誰なのか当初は謎だった


 特にサイババの人気は非常に高い。彼には宗教の垣根を超えた側面もあり、サイババ寺院ではシク教徒(ターバンを巻いた人たち)の姿もよく見かける。インドの人たちにとって自分のご贔屓の神様は家族やご先祖様のような存在で、このおじいちゃんの写真が財布に忍ばせてあったり、携帯の待ち受けだったり、フェイスブックのカバー写真だったりするのである。

 神様や宗教と関連してインドの多様性を語るうえでもうひとつ外せないのが、ベジタリアン(菜食主義者)の存在だ。欧米などと違い健康志向や動物愛護ではなく、その思想は宗教に拠る。やはりカーストとも少なからず関わりがあり、一般的に高次カーストほどベジタリアン率が高いと言われる。しかし都市部では欧米化に伴い肉食のタブー感が薄らいできたこと、経済成長とともに多国籍料理を出す店が充実してきたという背景も手伝って、お金持ちのグルメ嗜好の方々は決してこの限りではない。一方下層カーストになると、思想や宗教観ではなく経済的事情により肉を食べたくでも菜食にならざるを得ないという実態がある。

 また、同じ「ベジタリアン」を名乗っていても、「食べる/食べない」のラインは実に多岐にわたり、その基準は全く個人に依っている。調理器具から食器、食事の同席もノンベジタリアンとは厳格に分けるというストイックなピュア・ベジタリアンがいる一方、基準がかなり曖昧な人もいる。例えば卵の場合だと、原材料に含まれるのも一切ダメな人から、ゆで卵は食べないがケーキに入っているのはセーフ、という人や、肉食しないだけで卵は食べます、といった具合だ。はたまた私のヨーガの先生は牛乳も摂らない厳格なベジタリアンだが、愛飲のアーユルヴェーダ滋養強壮薬の原材料に魚骨エキスとあったので聞いてみたら、それは体のためなのでノープロブレムだ、ということだった。

 同時にそのラインは非常にフレキシブルでもあり、その時のその人の意識や信条、もっと言うと気分で変わったりすることもある。本当は菜食を貫きたいが誘惑に勝てない、といった葛藤であったり、願掛けのために肉食を断つ、といったゲン担ぎ的なものだったり、厳格な家族には内緒で大学の友だちとケンタッキーへ、といったものだったりする。こうなると感覚としては喫煙とか飲酒とかそういうものに近い。父親と息子はノンベジだが母親はベジ、と家族内公認でバラバラな場合もよくあり、家庭での食事はベジフードだが外食はノンベジレストランへ、というのも一般的だ。

 ベジ・ノンベジに関連しておもしろいのは、「神様デー」というものの存在である。これも地域性にもよるのだろうが、デリー界隈では火曜日が「ハヌマーン・デー」、木曜日が「サイババ・デー」となっている。これらの日にはそれぞれの寺院にお参りに行ったり家庭でプージャをしたりするのと同時に、普段ノンベジでも神様デーだけは肉やアルコールを断ったり、日中断食を行ったりする人もいる(しない人もいる)。インド人の友人のたっての希望で日本食レストランへ寿司を食べに行ったものの、今日は木曜だからあなた魚食べられないし日本酒飲めないんじゃん!ということが起こるのである。

 というような経験をして、冒頭の雑貨店のおばあちゃんの行動の理由がようやく明らかになった。普段からベジなのかノンベジなのかは定かでないが、彼女にとって火曜は「ノンベジフード触りもしない日」だったらしい。その雑貨店にはハヌマーン像が祀られていた。おばあちゃんはきっと壁面にある神棚を指さして言っていたのだ。今日は火曜日だから卵は触れないの。だからセルフサービスにしてね。かくして謎は解けたわけだが、理由がわかってもなおインドの宗教観の奇想天外さや滑稽さを禁じ得ないとの同時に、ちょっと羨ましくなるまでの自由な空気をそこに感じるのだ。

 

 あなたはこう、私はこう。でも明日には変わっているかもしれない。信じるものに従い、それをいかに解釈し、どんなライフスタイルを選ぶのか。さまざまな葛藤を伴いつつも、その選択は咎められたり非難されたりするいわれのない、個々のアイデンティティなのである。そこには、カーストという絶対的な制約の中にありながら無限に細分化された選択肢を認めるという矛盾から生まれる、インド独特の寛容さがある。なんら信仰を持たない私も面白がって寺院のプージャに参加したり、短期限定ベジタリアンになってみたり、ヒンドゥ祭事に合わせて断食を決行したりしてみたが、その寛容さの中にあっては少しの不謹慎さも伴わずに済むほどだった。そんな態度で取り組みながらも感じ取ることのできたほんのわずかな、それでも実際にやってみなければ分からない心身の変化は、信仰を持つということ、戒律を実践するということの意味に、少しだけ触れさせてくれるものだった。

 もうひとつ、こちらもインドに住み始めて間もないころの思い出深いエピソードがある。2番目に住んだ家のお隣さんは、若夫婦と夫を亡くしたお姑さん、という3人家族だったが、一家3人で宗教がそれぞれ異なっていた。お姑さんはもともと南インド出身でクリスチャン、息子は亡くなった父親と同じシク教徒、そしてお嫁さんはヒンドゥ教徒だった。家にも何度かお邪魔したが、リビングには小さな十字架が祀られ、ダイニングにはグル・ナーナク(シク教の開祖)の肖像画が掛けられ、若夫婦の寝室ではガネーシャ神像の前にお香が焚かれていた。

 なんとまあ自由だなあと思った。日本で暮らしていると、自由、とりわけ宗教の自由などというものは、いくら憲法で声高に謳われていても、社会の教科書で習っても、全く実態の伴わない単語の羅列でしかない。しかし世界には本当に宗教の自由というものが存在して、ここではひとつの小さな家の中でこんなに平和な形で実現している。宗教とは、国籍や性別や社会的立場と同列にある、最も基本的なアイデンティティのひとつであることを、インドは、書物の中の文字でしか知らない日本人の目の前に示してくれる。

 それを初めて目の当たりにした時の感動は、今でも忘れられない。

 

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著者プロフィール

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三隅愛
オンラインショップ「インド雑貨.com」運営
www.indozakka.com 

 

アジア放浪中の2002年、初めてインドの地を踏み、半年かけて1周旅をする。
2008年、当時1歳の子どもを伴い家族で渡印、デリー郊外・グルガオンで暮らす。
「郷に入りては郷に踏み込め」を信条に、衣・食・住環境から生活パターンまでミドルクラスのインド人コミュニティにどっぷり漬かる一方で、日本向け個人事業を開拓。
2014年日本へ帰国。現在はオンラインショップ「インド雑貨.com」を運営、定期的にインドへ足を運ぶ。

 

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